吉浜稲荷について

吉浜稲荷神社はいつごろから祀られていますか、などと祭典のお参りにみえた方によく尋ねられることがございます。残念ながら古老の話によりますと神社の建物は明治の中頃火災で焼けてしまい、資料や書物は残っておりません。
このため平安時代の後期ではないかと思いますが記録は何もありません。
祭神は「宇迦之御魂神」土肥郷の千歳が丘の鎮守として、稲作の普及により各地に稲荷信仰があり、農業、漁業の他いろいろな職業の方々が崇敬者としてご参詣いただいております。
源頼朝が源氏再興の旗揚げし(1180年)治承4年源氏再興のため韮山の北條時政とともに土肥(湯河原)の豪族、土肥次郎実平は源氏のため一族挙げて石橋山の合戦の戦略等指揮したものの、大庭景親率いる平家の大軍との戦いに敗れて土肥郷に逃れて、領地の山中に七騎で姿を隠し10日間、箱根権現にかくまわれ土肥の大杉の祠にかくれたり、小道地蔵の堂にひそみながら敵に見つかることなく真鶴の海から舟で安房に脱出することができました。
この時海上の安全を祈り舟中にて「法華経」を唱えて祈念し無事安房の小島に渡海することができました。
後に源頼朝公は関東の武士集団を結集し平家軍と戦うことになり、遠い平泉の地から弟の源義経が駆けつけて、軍略に優れた義経の作戦と指揮のもと一の谷でひよどり越えの奇襲で平家軍を驚かせて、壇ノ浦の舟戦さでついに平家を滅ぼして鎌倉幕府を樹立し武士が実権をにぎり新しい時代の幕を開きました。
頼朝公は天下平定の後、土肥次郎実平に稲荷の祠があった千歳が丘に新しい稲荷の堂宇建立を命じ「吾先年、海路無難であったのは稲荷大善神の妙法功徳によってであると」正一位稲荷を送られたとも伝えられている。
土肥次郎実平の嫡嗣、土肥弥太郎遠平が建久4年命に依って稲荷の堂宇を建立したと伝えられております。
明治初期に神仏分離令が出されて、明治6年足柄県に於いて無格社と定められ同44年素鵞神社に合併し、以後は教会として発足した。
昭和22年素鵞神社から分離奉斎し、同28年11月20日宗教法人「吉浜稲荷神社」として神奈川県知事に認証されております。

豆知識

神社に関する豆知識をまとめております。

吉浜稲荷神社 公式ページ

手水の作法について 参拝するときには、まず鳥居の前で衣服を整え、軽く一礼してから境内に入ります。次に […]…

吉浜稲荷神社 公式ページ

七福神について 七福神は、福徳をもたらす神々として広く庶民に親しまれています。初めはいろいろな神を福 […]…

吉浜稲荷神社 公式ページ

鳥居(とりい) 「鳥居」は神社の象徴となっていますが、これは神社の入口に建つ一種の門であり、神さまの […]…

吉浜稲荷神社 公式ページ

安産祈願と腹帯(はらおび) 腹帯の効果がいま見直されています。懐妊すると五ヶ月目の戌の日に、母体の健 […]…

吉浜稲荷神社 公式ページ

「親戚で〇〇にあたる人が亡くなられたのですが、お正月を迎えてもいいでしょうか?」など、このようなお尋 […]…

吉浜稲荷神社 公式ページ

六曜(大安・仏滅など)について 中国においては、時刻の吉凶占いに用いられていましたが、日本に伝来して […]…